傲慢と憐憫

 弱い人が苦手なんだけれど、そういう人によくあるのが、自分が昔そうだった、あるいは自分がそうなる可能性もあった人に対して批判するというもので、それが本当に嫌いだ。

 たとえば、僕の父親は、数々の幸運が重なって、今ではそれなりの会社でそれなりの地位に立っているけれど、昔は小さい会社の社畜であった。それなのに、彼は、取引先の小さな会社に対して、仕事が遅いだの、雑だのという話をし、しかも、それを会社が小さいせいにしているのだ。この、一番最後のが問題で、つまり、レッテルを貼っているんだよね。しかも、それは過去、自分がいた場所に対して。逆の立場になったことを容易に想像できるのに、そういうことを言ってしまう。それは、自身の立ち位置が間違っていない、自身の努力が間違っていない、という暗示のためにやっていることだ。あり得たかもしれない可能性や、過去の自分を否定することで、ようやく、今の自分を肯定できるということだ。

 それは、弱さだ。

 そこまで自分に自信がないのか、そして、その弱さから他人を攻撃するのか、そこに過去やもう一人の自分がいるのに。そう思ってしまう。

 どうして、彼らが他者を攻撃してしまうのか、わからない。きっと、自分が努力したから、自分には才能があったから、だと考えてしまっているのだろう。だから、相手にはそれが足りないと。もし、自分が失敗したとしたら、その時は運が悪かったとか、環境が悪かったとか、そういう風に言うに違いないのに。

 僕はそんな風に惨めに生きるつもりはないし、そもそも、そういう風に思ったことはない。成功した時はいつも運や環境によるものだと思うし、失敗した時は努力や才能が足りなかったからだと思う。過去の自分や、自分と敵対した人を哀れだと思う。

 いや、しかし、文章にして読むと良くわかるが、これは高潔というものではなく、とてつもない驕り、傲慢さから来るものだな。本来は相対すべき敵にすら、同情をかけることで、一方的なマウントを取っている。そんな気がする。