想像の病死

 難病にかかった人のブログや本などをよく読む。多くの人がそうであるらしいように、元気や勇気をもらうためではなく、自分もそうなる可能性があり、そうならなかったのは紙一重なのだと確認するためだ。

 ただ、あるタイミングで一気に読むということも多く、更新を常に追うということをしないことがほとんどだ。別にその人を応援しているとか、そういうわけではなく、自分本位な理由で読んでいるから。そして、ふと、思い出して検索する。そうすると、著者が亡くなっていることがほとんどだ。

 悲しくなる、ということもない。その人のことをほとんど知らないから。ただ、虚しくはある。これが治ったら、どれだけのことをしようかという希望や、各種の治療がどれだけ困難と苦痛を伴うかが書かれていたのに、一年もしない間に亡くなってしまうことも珍しくないから。

 まれに、家族が追加の投稿をしていることがある。皆、絶望している。仕事を辞め、何も手につかないという人も多い。病死していなかったら、健康だったらと描いた未来を未練がましく書く人もいる。ああ、そうだ。皆はそう思って生きているのだろうな。最後まで近しい人は健康で、今の延長上の、しかも良い未来に向かっているとなぜか信じ込んでいる。だから、普通に日々を過ごすことができるし、確率的な問題で病気にぶち当たった時、自身の人生に躓くのだろう。

 まあ、何もないはずの、平坦な道に、石が落ちていたらなど意味のない想定をして、転がって倒れることばかり考えている人間よりましか。