何になりたいかより、何がしたいかで自分を語れよ

 底辺声優を辞めましたみたいな記事を読んだ。皆が言うように、茨の道だからと言って声優を辞めたのに、もっと狭き門である教授を目指すオチになっていたのは確かに面白かったが、それ以上に、彼女が声優になりたがっていたことに興味が惹かれた。

 そう、声優に、なりたがっているんですよ。声優を、やりたがっている、のではなくて。声優になりたいんですよね。声の仕事がしたいのではなくて。それが興味深い事実だった。

 

 僕の経験上、インタビューを観たり、知り合いの友人ぐらいのところにいる創作系の仕事をしている人の話を聞いたりしている限りは、そういう職に就いている人は二種類に大別されている。

 一つは、それにしか興味が持てない人。例えば、延々と絵を描いている。ずっと小説を書いている。休日はそれしかしていないような人で、そのために休日とか友人とか仕事とか体面とかを犠牲にしているというより、犠牲にするとすら思っていないような人。それしかできないので、それで食い扶持が稼げなくても、ずっとやっている。ずっとやっているから技量はついてくるし、そのうち、ヒットすることもあるのだろう。そんな幸運がなかったとしても、ずっとやっている。そんな人たちだ。ある対象に対して、アクティブさが降り切れていると言ってもよい。

 もう一つは、それしかできない人。社会的な特性を全く持っていなくて、他の仕事ができない。総じて、決まった時間に起きて、決まった場所に行って、決まったことをやることができない。だから、生きていくためにできる唯一のことをして、食い扶持を稼いでいくしかない。それ以外のことへのネガティブが降り切れていると言ってもよい。

 両者に共通するのは、それだけをやる、できる、という点だ。そこに、それをやる職業に就きたいという感情はない。ただ、やることをやり、自然とその立場になったというだけだ。

 

 もちろん、そうでない人もいることだろう。その職業が持つ収入や名誉、地位や肩書、イメージにつられてやっている人も。けれど、そういう人はきっと、長く続けられないのではないかと思う。だってそうだろう。人に認められたいというのなら、声優なんかよりも別の方法がある。そっちの方が体裁の良いことだって多い。それこそ、教授みたいな。そうなれば、苦しい道はただの苦行でしかない。他にそれてしまう。

 思うに、これは幼い頃から、大人が子供にかける呪いなのだ。つまり、大人は常に聞くだろう。君は、何に、なりたいのか、と。本当にかけるべき言葉はそうじゃない。何を、やりたいか、なのに。肩書になんて意味はない。それは他者がつけるもので、定義だって曖昧なのだ。だから、皆はただ、自分がやりたいことだけをすればいい。好きなことを好きなだけやって、ふと足元を見た時に立っている場所。それこそが、今の職だったり、趣味だったりするのだから。