欠けていることに関して
ソシャゲをやっていると、Aが当たらなかったとか、Bが欲しいとか、全キャラクターが欲しいみたいな意見をよく見る。けれど、僕は正直、全てのキャラクターが揃うのが怖いのだ。欠けていること自体は、別に悪いことではないと思っている。
「ぼくを探しに」という絵本があるが、その内容は絵本の例に漏れず示唆に富んでいて、僕はその内容に賛同している。それは欠陥があるからこそ、見えてくるものや、面白いものがあるという考えだ。
だって、そうではないだろうか。全てが万能であればいいというのであれば、全てのゲームはチートを使った後の状態になっているのが良いはずだ。相手のダメージは喰らわず、こちらの攻撃は一撃で、全てのキャラクターが揃っている。しかし、それになんの意味があるのだろうか。ゲームとはつまり、過程を楽しむもので、それは問題を解く行為に他ならない。答えを知っているということは、問題を解く楽しみを味わえないということになる。
先に論じた金銭の話にも通じるが、別に足りない状態は不幸には結び就かないのだ。むしろ、欠けているおかげで理解出来る楽しさもある。僕はそう思っている。
だから、僕はTCGでも、環境で最強のデッキやカードはなるべく使わず、少し変わっていて、プレイに幅が出るようなデッキを好む。弱点が明確にあってもいい。別に、全ての試合に勝ちたくて戦っているのではない。戦うのが楽しいから、戦っているのだ。
なるほど、僕は元々、過程に重きを置いていたのだな。それを幼少期の勘違いで、コスパのよい未来というものを求めてしまった。思えば、それが間違いの始まりだったのだろう。今が楽しければ、それでいいのだ。欠けていたとしても。