金銭感覚に関して

 ここで言う金銭感覚は世間一般が言うそれとは少し意味合いが違うかもしれない。

 僕は、物事についている値段に、未だ納得がいっていないのだ。

 たとえば、人々は消費税が数パーセント上がるだとか、百円の食料品が倍になったとか、ガソリン代が10円上がったとか、そういうことで騒いでいる。確かに、そうなるのはわかるよ。僕だって、それらの影響を受けて、家計にダメージが来るのだから。でも、僕にとって不思議なのは、車に何百万円もかかったり、フルタイムの仕事をしているだけで月々にバイトでも二十万はもらえたり、家を買うのに数千万円もかかることの方なのだ。

 だって、そういう単位に比べれば誤差じゃないか。ATMの手数料を気にするぐらいなら、一時間働けばいい。それで一ヶ月分の手数料は確実に補填できるだろう。ガソリン代だって、安い場所に探すのにかかった時間で稼げばいい。そう思ってしまう。

 なんか、物事の値段に対して、給料というものが高く感じてしまうのだよね。仕事をしているという自覚がないからかもしれない。僕の関わった製品が作られて、出荷されていく光景は何度も見ている。それが数千円と値付けされて、大量に売られていたり、数十万円となって、数回売られていたり。でも、どうにも実感が湧かない。僕はそんなに毎月給料をもらえるだけの働きをしたのだろうか。しているのだろう。でも、どうにもしっくり来ないのだ。

 たとえば、妻が仕事を辞めたが、結局、家でゴロゴロして、何も生産していない。僕も無職の時、そんなことをしていたから感覚はわかる。でも、仕事をしていても、仕事場でゴロゴロしているだけで、やっていることは大して違わない気がする。それで、給料がもらえる。不思議な感じがしてしまう。しかも、それは一年でうまい棒を十万本以上も買える金額なのだ。十万本ですよ? そんなに価値ってあるかな?

 企画担当の人が考え、開発の人が作り、それを工場で生産できるように設計して、材料を買って造り、流通が運んで、販売される。それが一つ百円だったりする。これでいいのか? と思う。そんな値段でも売れ残っていたりすると、それに関わった人々の気持ちをないがしろにしている気がして、思わず買ってしまう。大量生産のなせる技だと知っていても、どうにも感情的に納得がいかない。

 引っ越しに数十万円というお金がかかり、弟の祝儀に十万円を出し、エアコンの移設に数万円がかかり、なんてやっていると、そんなことを考えてしまう。莫大な出費だけれど、数ヶ月働けば、相殺できる値段なんだよな、僕にそれだけの価値があるのだろうか、なんてことを。

 

 なんかごちゃごちゃしていて、よくわからない文章になってしまったが、世間で値付けされたそれと、僕が感じる価値とに大きな差違を感じるという話でした。

 それの最たる例が物語で、缶コーヒーを我慢すれば中古の文庫が買え、それが人生を大きく変える可能性があるなんて考えると、本当にコスパがおかしいことになっているといつも思う。だから、僕は食事にあまりお金を掛けずに、シナリオやシステムにお金を費やしてしまうのだけれど……

 また、話が脱線してしまう。

 どうにも、しっかり下書きをせず、考えついたことをダラダラと書き連ねていくと、こんな文章になってしまうようだ。話が飛躍しすぎるし、コロコロ変わるから、作文の点数、物心ついた頃から最低評価ばかりだったからな。

 あとで、ちゃんと書き直そう。

 僕が何となく労働を続けてしまう理由の一つがこれです。大したことをしていないのに、もらえる給料が、僕にとっては多すぎるから、働くのがアドってことになってしまっている。これは良くない兆候だなぁ。金はそれを払って手に入れるための手段であって、そのものに価値はないのだから。