未練に関して

 未だに、俗世への未練が残っている。

 これは別に宗教の道へ進んだのに、とかそういう話ではなくて。つまり、世間一般で言うところのいい学校を出て、いい会社に入って、いい老後を送るという人生を俗世と呼んでいるのです。それに僕は何の価値も置いていない。それは事実だ。でも、そうでない人生を盲信できているのかと問われれば、まだ肯くことは出来ない。だから、妻がそれなりに良い生活を望んでいるかのようなことを呟いた時や、有名企業へ入れるような機会が訪れた時に、ふと頭に過ぎる。今ならまだ、レールを修正できると。

 でも、それは間違いなんだよね。それで僕が救われることがないとわかったから、そこから降りたわけで。また這いずり上がっても、同じことが起きるだけだとわかってはいるんだよ。なら、どうして、そうしようかと考えてしまうのか。その理由は二つある。

 一つは単純に染みついた考えを正すのが難しいからだ。二十年ほどかけてたたき込まれた考えを、理性だけで数年をかけて叩き直そうとしているのだから、それが困難なのは不思議なことではない。ましてや、人格の竜骨に当たる部分に、その部品は使われているのだ。まだ置き換えられていないパーツが、たまに現れてしまうのだ。

 一つはそれが楽だからだ。会社にいるだけで、平均以上の給料がもらえる。周囲から責められることもない。レールに乗るというのは、なんて素晴らしいことなんだろうか。ただ、それでは生きていることにならないことを除いては。

 結局のところ、僕は覚悟が出来ていないんです。周りが、まともだからというのもあるのだろうけれど。いっそのこと、一人になってしまえば、きっと僕はどこか遠いところでのたれ死ぬこともできただろう。というか、そうするつもりだったけれど、いろいろあって、一人ではなくなってしまった。

 だから、中途半端に生きている。

 でも、僕はわかっているんだ。待遇や条件を求めて、求人広告に手を伸ばしたところで、似たり寄ったりの人生を送るしかなくなるってことを。もし、僕が本当に楽しい人生を送りたいと思うのなら、楽しいと思うことをただ、やっていくしかないって。

 それを、少しでも、と思っている。これに気付いてから、生きていくのか少しだけ楽になった。だから、これは正しいのだと思う。レールに乗っている間、本当に死にそうな顔をして、毎朝電車に揺られていたのだから。

 前向きに、普通に、生きていくことは二度と出来ないだろう。でも、それでいい。ただ、僕が納得できる人生を送れるというのなら。

 

 ああ、これに関して、どうしても僕が虚無感を抱く事実があるんだけど、それは次の機会にでも。