幸せに関して

 簡単に言えば、人間はあまりの理不尽でさえも、それを受け入れてしまうということがわかっている。四肢のどれかが無くなる、交通事故に遭遇するといった、大きな損失でさえも、アメリカの研究によれば、あれは結果として良かったと思うようになるとのこと。つまり、人間はそう思うように出来ているんだよね。長い進化の過程で、そう思えないような人間は死に絶えてしまい、多数派になれなかった。

 ならさ、何をすればいいと思う? 結局、どんなことをやっても、人間は自身の人生をそれなりだったと満足できるとするならば、逆に何かをやる理由もないでしょう?

 たとえば、僕は強く絶望したことがあって。それはある大晦日の夜、兄弟で集まって、アナログゲームで遊んでいたんだよね。その時、いろんなゲームをやった後、単純なトランプゲームである、大富豪やぶたのしっぽをやって遊んだのだ。それはいわば、洗練されたボードゲームから観れば、ゴミみたいなゲームバランスしか持たない運ゲーだ。けれど、それが楽しかったんだよ。

 なら、ゲームは何のために設計されている? どうして、僕は初心者でも楽しめるような素晴らしいゲームを探し、それを買っているんだ?

 TRPGでも同じことがあって、最も僕が楽しかったと思うセッションは、仲間内で最も好ましい人々だけが集まったGM兼任のPL3人のランダムシナリオセッションで。さらに言えば、そのシステムは僕の好きなシステムではなかった。もうさ、馬鹿らしくなってしまって。このシステムがどうセッションに影響するかとか、どういうシステムは面白いシナリオを生み出すかとか、どういうシナリオならみんなが楽しめるものになるのかとか、色々考えていたはずなんだ。その結果、答えは楽しい人だけでやると楽しいという事実であって。その時、TRPGに明確な忌避感を抱いてしまった。

 

 ある人たちにとっては、悲惨な人生を送ろうが、どんな人生を送ろうが、それをある程度幸せだったと許容できるというのは、救いになるのだろう。しかし、僕にとって、それは呪いであり、絶望でしかない。