個人と集団の創作に関して

 「天気の子」を観た。素晴らしくも歪な作品を観て思ったのは、日本はある天才に創作を任せっきりにするがゆえに、作家性が強く出た作品がたびたび生まれるなぁということだ。

 実際、「天気の子」は監督、脚本、原作、絵コンテのメインは一人が担っている。たとえば、世界的に人気のある漫画、「進撃の巨人」だって、原作、作画、絵コンテは一人でやっていて、設定考証がいるぐらい。ほとんど一人の才能に頼っている。ゆえに、志望者が多い割に、その才能が開花する前に埋もれてしまうことも多い。当たり前だろう。原作、作画、あるいはキャラクター設定、脚本、演出……そのどれもが専門家を必要とするような、非常に大変で才能が要る作業ばかりだ。それを一人に任せようと言うのだから、よほどの天才でなければ出来ることではない。それなのに、日本ではそれが当たり前だというように思われている。

 アメリカではそうはならないだろう。監督がそもそも二人以上いることだってあるし、脚本だってクレジットだけでも四人とかになっていたりする。実際には、それ以上の人(たとえば監督、プロデューサー、主演)が関わっていることも多いそうだ。そうやって、たくさんの人の知恵を出し合った結果、あの極値のような完成度の脚本が生まれてくる。ディズニー・ピクサー作品や、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」、「スパイダーマン:スパイダーバース」に代表されるような。これらは本当に完成していて、素晴らしい作品たちだ。それは複数人によって支えられているエンターテイメントの完成形で、その技術、ノウハウは引き継がれていくことだろう。

 学問として創作を観た場合、絶対に正しいのは後者だ。天才が死ぬに連れて、次第にその差は離れていき、最終的には大きな差になるだろう。科学が発展し続けているのは、天才によるブレイクスルーがあるからではない。途方もない数の人間が途方もない数の人間でも再現出来る論理を残していくから、続き、発展していくのだ。その意味には日本は間違っていると思う。しかし、一人に任せるがゆえの、特別な作品が生まれることはある。そういう所に創作の魅力を感じてしまうんだ、僕は。

 でも、もっと集団の創作を日本でも進めていくべきだと思うけれどね……