シリーズものである意味

 ついに、スター・ウォーズエピソード9のトレーラーが公開された。最近のディズニーのトレーラーは全く予告としての役割を果たしていないどころか、フェイクすら入れてミスリードを誘うので、参考にはできないが、単純に心が躍る。

 それで思い出したのだけれど、僕はエピソード8否定派だ。このエピソード8という作品はかなりの忌み子で、他作品と比べてダントツで賛否両論、しかもそれぞれが極端ということもあって、スター・ウォーズファンに亀裂を入れた作品となっている。ここで、僕がこのエピソード8が何故、素晴らしい作品だと思わないかを簡単に書いておこうと思う。

 

 まず、単純に脚本の出来が悪い。これは肯定派の人々も認めるところだけれど、普通にクオリティが低い。作中の人物の行動が結果に結び就いていないことが多く、しかも、その行動は時間を掛けて描写された中心人物のものである。そのために、映画自体の意味がなくなっている。ギャグのセンスもなくて、シリアスなシーンにいきなり入れてくる割にはその雰囲気が上手く描写されておらず、単純に寒く、センスがない。これはこの監督の特徴で、「LOOPER」でもそうだったので、技量不足ということなのだろう。

 次にテーマがしっかりとしていない。レイがスカイウォーカーの血筋でないというのは普通にいいと思うし、エピソード7の引き継ぎとしても非常に良いと思う。けれど、そのテーマが中心に来ていない。正当かつ最強とも言える血筋を持つカイロ・レンと血筋の有無による差というものが明示されていないのだ。そのくせ、謎の現象でテレパシーは使える。何かのために犠牲になるべきではないというテーマを振りかざしたかと思えば、ハイパードライブ神風で主人公たちが助かる。これ、皮肉として出してる? そんな具合で最後まで行くから、めちゃくちゃだ。何が言いたいのか、全然わからない。しかも、神風でこんな効果出しちゃったら、以前の作品の人々は、こんな明確な兵器を持っているにもかかわらず、命が惜しいから使わなかったの? ってことになっちゃうと思うんですけれど……

 最後に、これが一番大事な箇所だが、以前の作品との不整合が起こっている。まずは、フォースの万能さ。フォースは便利な力として描写されることがあるが、基本的には魔法ではないことが明言されている。だから、ジェダイたちは知恵を絞り、体を張って、シスと戦ってきたのだ。しかし、この作品ではその能力が過大に描かれてしまっている。まずは、レイアのオート帰還に始まり、幽体のヨーダが雷を落とし、ルークは幽体を遠くの惑星へと飛ばす。これらの問題は、その力があれば、以前の作品で問題になっていた箇所をクリアできるという点だ。ルークのそれはまだ、訓練による賜といった言い訳もできるが、ヨーダのそれは過剰だし、強すぎる。場所が限定されているといった設定の裏付けなどがあるのだと思うが、それを描写しないのに、やり過ぎている。それができるなら、パルパティーンに雷落とせってことになってしまう。

 

 シリーズの、特に正当な続編として描く場合、大事なのは、過去の作品との繋がりだと考えている。それがなければ、名前を変えて、完全な新作にすればいいからだ。もちろん、シリーズの縛りが強くなりすぎている時に、その流れを大きく変えることは有用だし、必要なことだ。しかし、それはシリーズの整合性を保ちながら、上手く雰囲気を変えるという高度な技術である。単純に変えるだけならば、極論すれば、スター・ウォーズの続編と名乗って、突然アベンジャーズを公開すればいいということになってしまう。それが上手く出来なかったから嫌われたのだと、僕は思っている。

 まあ、僕は単純に前者の理由として挙げた点だけを考慮しても、凡作以下だと思いますが……センスのない人間のシリアス中のギャグほど嫌いなものがないので。