感情のやり取り

 コロナ禍が一区切りつきそうで(終わるとは言っていない)、スポーツなんかも再開し始めるようだ。その時、スポーツを通じて元気を与えられたら、みたいなことを言っていて、なんかそれが本気で言っていると気付いてちょっと驚いた。

 普段からスポーツ関係者なんかはそんなことを言っているのだけれど、それは別に朝早くないのに、おはよう、というようなもので、定型的に言っているのかと思ったんだけれど、その前後の発言を聞くに、本気でそう思っているらしいのだよね。僕はスポーツに元気づけられたことなんかないというか、むしろうんざりさせられた記憶しかないので、そんなこと言っている人は、別の種の動物なのではないかと思ってしまう。

 というか、そもそも、他人の行動で元気づけられたことなんかない。面白い映画観て、楽しい気持ちになることはあるし、面白いゲームをやって、その勢いで部屋の片づけするなんてことはあるが、それは元気づけられているわけではなくて、楽しかったから勝手にこっちのテンションが上がっているだけだ。娯楽を媒体として、元気の受け取りが行われたのではなく、娯楽によって、こちらの元気が誘発されたという状況に近い。あるいは、それを元気づけると言っているのかもしれないが。

 どうにも、音楽でもスポーツでもなんでもそうだが、元気を与えるとか、そういう言い方に少し抵抗がある。ずいぶんと上から目線の勝手な物言いのように感じるし、そんなものを施されなくても人々は生きていけるだろうという反抗的な気持ちになってしまう。受信側はこっちの都合で、好きなものを摂取しているだけなのに、発信側が強い意図をもって、受け取り方を強要しているように感じてしまうのかもしれない。発する側ができることは、その媒体を、その作品を、その試合をどうするのかだけで、受け取り側がそれをどうとらえるかはその人、その時、その場合による、と思っているのかもしれない。発信側が、どう受け取ってもらえるかを考えて、工夫するのはよいのだが、受信側が実際にどうとらえるのかは、そのモノ次第、と思うのだ。そこに発信者側の意図は意味を持たない。だからこそ、発信側は、そのモノ自体をよくするという方向に力を入れるのではないか。受け手に干渉できるのなら、都合よく受け取ってもらえる人を集めたり、といったことをし始めて、モノ自体のクオリティを良くするという方向に力が向かわないのではないか、そんな風に少し感じてしまう。