目的について

 人生の指針がない、というのが僕の悩みだった。それがある種の解決を見せたので、考えをまとめるためにも書いてみる。

 

 まず、僕はゴールを設定してから、そのゴールに確実に、楽に、簡単に到達するというのが得意だった。たとえば、人より苦労せずに偏差値は平均より上の高校に行きたいと考える。すると、偏差値は60ぐらいでいいから、自宅から通える高校をピックアップして、その過去問をチェックする、みたいなことをやっていた。大学受験も、最も近い国立大学ということで簡単にゴールが決まり、それに100%受かるように攻略法を考えた。企業でも同じで、僕は人並みより少し上の生活がしたかったから、新人離職率が低く、平均年収が高く、自己資本率が高く、ここ数十年で業界が変化しないような企業を調べて、そこに入るように努力した。そして、全てをクリアしてきた。

 どうして、僕が人より少し上の生活を目指して来たかというと、それは自分の子供に僕のような思いをさせたくなかったからだ。僕の父は職を数年で転々としていて、中小企業ばかりに属していた。そのため、裕福とはとても言えず、塾にも通えないような幼少期を過ごしてきた。クリスマスプレゼントが漫画一冊だったこともある。それが、高校生ぐらいになって反転。彼は一部上場企業の就職し、我が家の家計は一気に改善した。残念なことに、僕はアルバイトで稼げるようになっていたから恩恵はなかったが……

 僕は幼少期に苦い思い出ばかりを残していて、そのたび、僕は自分の未来に呪いを掛けてきた。父が人生を適当に過ごしてきたゆえに、そのツケを僕が払っている。これは、許されないことだ。だから、僕は絶対にそうはならない。自分の子供に苦労を掛けさせないような人生を必ず送る、と。そして、僕は一部上場企業の新卒社員となった。

 

 しかし、致命的な事実に気付いてしまった。

 一つは、子供を持ちたくないと思ったことだ。常識に染まっていた僕は、勝手に子供をそのうちに持つものだと思っていたが、色々と調べ、知識を得た結果、子供は必要なく、むしろ人生の枷になることがわかった。僕は子供が欲しくなくなってしまった。

 一つは、すでにゴールに辿り着いてしまったことだ。僕はその人並みの生活を簡単に送るという目的があり、そのために嫌いな勉強もやることが出来た。しかし、目的を達成したのに、どうして、毎日こんなに苦しい思いをしなければならないのか。それが全く納得できず、次第に嫌気がさしてしまった。

 ここの問題は、まとめるとこういうことになる。

 ・設定した目的が間違っているということがわかった。

 ・目的がなくなった時に何を糧として苦労に耐えればいいかがわからなかった。

 こういうことになる。

 そして、僕はいろんなことに耐えられなくなり、決定的な出来事があったこともあり、職を辞し、ひたすらに次の目的を考えることにした。

 この時、僕は、次こそ絶対に間違いのない目的を見つけることにしたのだ。

 

 しかし、勉強をしていくうちに、僕はそれが理論的にあり得ないとわかってきてしまった。

 そもそも、自分自身も、社会も変わっていくのだ。初めは好きだったものが嫌いになってしまうこともある。金が稼げてきたスキルが、無用の長物となることもある。

 なにより、僕はいつか必ず死ぬのだ。絶対的な正解なんて、あるわけがないだろう?

 それなのに、僕は探し続けていた。僕がずっと好きでいられて、それに熱中できて、それゆえに仕事となって、生きていけるようになる何かを。

 見つけられないがゆえに焦っていた。僕の年齢を考えれば、それをすでに見つけて、ある程度の結果を出しているはずだ。そうでなくとも、今、それに熱中していなければならない。つまり、過去形か現在進行形であるはずなのだ。なのに、僕は未来形ですらない。目的も見つけられていないのだから。その焦燥はいつも僕の背後から襲いかかっていた。

 

 でも、それは違ったのだ。

 僕は、人生の目的を設定すべきではなかった。なぜなら、完全な目的など、存在しないからだ。そこに立たなければわからないこともある。全ては変わっていく。

 だから、僕は、その過程にこそ、重点を置くべきだと気付いたのだ。

 つまり、たとえば作家になりたいから小説を書く、それも毎日一時間、というやり方をするのではない。好きだから一日一時間ぐらい小説を書いてしまった。それを繰り返していたら作家になっていた。となるべきだと気付いたのだ。

 そうでなければ、少なくとも僕は続けることが出来ない。今まで、目的を決めてから動いてばかりいたから、まずそれを設定して、一日分の目的まで分解して、ノルマとする。苦しくても、毎日やる。そうやってきた。でも、そのやり方では、僕はこう思ってしまう。これだけ苦しい思いをしていて、目的を達成したとしても、その目的が間違っていたらどうする? その目的が達成できたとしても、その先は? その目的が達成できたとして、なにか意味があるのか? こんな具合だ。

 でも、過程に惹かれているのなら。それをやるのが好きで、ワクワクして、好奇心が刺激されているのなら、それを続けられるはずだ。途中で嫌になってしまったとしたら、それは所詮、僕との相性がその程度ものなのだ。なら、別のことをやればいい。

 最後まで続けられるのなら、いずれそれは僕の力になるだろう。もしかしたら、それで生きていけるようになるかもしれない。でも、それはあくまで結果であって、目的ではないのだ。

 大いなる結果を出している人は、こうなっていると思う。

 もちろん、目的を達成することを好きな人は、努力が出来る人だから、こんなことをしなくても、考えなくても良いだろう。でも、僕みたいな達成感を得ることが出来ず、目的を達成しても無感動であることが多い人間には、過程自体が面白いことが必要なのだ。それがようやく、わかった。納得できた。

 甘い、という人もいるだろう。嫌なことも苦労してやって、そうしなければ堕落していくだけだ。ゴミのような人生を歩むことになる。こう考える人が。

 でも、悪いが僕はそもそもそういう考えで生きてきた。それで、つまずいてしまったから、この考えが必要だったのだ。そこで生きていける人はそれでいい。そのまま生きてくれ。でも、どうしても、そう考えられないなら、社会不適合者として生きていくしかないのなら、僕のような考えが役に立つことがあるかもしれない。

 特別、素晴らしく新しい考えというわけではない。事実、よく本でこういう考えを持っている人も見た。でも、それを自分自身のこととは考えられず、腑に落ちてもいなかった。それが、ようやく自分のものとなったというだけだ。

 

 だから、僕はこういう考えで生きていこうと思う。

 ワクワクすることだけをして生きていく。もし、どうしてもやりたくないことをやらなくてはいけないのなら、出来るだけ簡単に終わらせる。

 

 いずれ、僕は死ぬだろう。だが、それは今日ではないし、絶望でもない。